飢饉時の食糧対策
この時代の1763年には日本へ赴いた朝鮮通信使がサツマイモを持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。
英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。
英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の正祖の時代に入ると新たな局面を迎える。
謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年、王位につくと反対勢力の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。
その代表格が洪国栄であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。
この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。
しかし1780年王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。
基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。
英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。
正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正統とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。
しかし、僻派と時派による政治的党争は続いたままであった。
この頃に中国を経由してカトリックが流入してきた。
英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。
英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の正祖の時代に入ると新たな局面を迎える。
謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年、王位につくと反対勢力の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。
その代表格が洪国栄であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。
この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。
しかし1780年王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。
基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。
英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。
正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正統とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。
しかし、僻派と時派による政治的党争は続いたままであった。
この頃に中国を経由してカトリックが流入してきた。
update:2010年02月22日
